20080318

チェルフィッチュ『フリータイム』

チェルフィッチュの新作を日曜日にSuperDeluxeにて鑑賞。前作『エンジョイ』のチラシにあった岡田利規本人による素晴らしい惹句が、時間差で形になったような作品だと思った。
彼らがそして私たちが置かれている、このような社会条件下であっても、彼らはそして私たちは、なんであれ与えられた生を楽しんでよいし、楽しんでるその仕方を肯定してよい。その仕方を矮小と感じてしまうことなく楽しみ続けることが難しく思われるときがたとえあったとしても、「楽しんでいる」と明言してよい。

そして年長フリーター問題を正面から扱った『エンジョイ』は、切実ではあったけど、エンジョイの肯定ができていたわけではなかったように、いまは思える。

『フリータイム』は、就業前の30分をファミレスで落書きしながらだらだらする「自分だけの自由時間」と決めている派遣社員の女の子と、ウェイトレスの西藤さんという子の、潜在的な連帯を描いたプロレタリア演劇(!)、だと思う。「このまま1時間でも2時間でも居座って、しれっとした顔で遅刻してってても、じつは何も言われないんじゃないか」「むしろ、そういう時間って大事だよね、って奨励されたりするんじゃないか」……むろん、彼女が意図的に遅刻する日は来ないだろう。でも自ら由る(自分で使い方を決める)30分があればやっていける。

チェルフィッチュを観に行くのは、自分たちの生活についてちょっと突っ込んだ話を聞きにいく、という感じに近い。戦争と性と自意識の問題が入った『三月の5日間』はキャッチーだったけど、むしろ港北ニュータウンで子どもを作ろうかどうかと悩んでる若夫婦の話だった『ポスト*労苦の終わり』『目的地』の濃密な地味さをこそ我がことのように見てしまったし、年長フリーターや派遣社員が日々の不安を吐露する『エンジョイ』にも涙した。どれもこれも、30がらみの自分たちの小心な暮らしが驚くほど克明に(つまり忘れてしまうような細部までが)描かれていると感じられるし、そのこと自体に希望をもらえるという感じがする。

例によって、一つの役を複数人でリレーしていくような独得の脚本・演出。これによって、かえって友達の駄話を聴かされるときと同じような熱心さと気散じの同居した状態で耳を傾けることができるんだから妙なものだ。「こういう話があって」と出来事について語るスタイルと、役になりきって再現的に演じるスタイルとを自在に行き来する、洋風に言えばブレヒトとスタニスラフスキーの止揚、和風に言えば「落語っぽい」手法。チェルフィッチュというとこの形式的な特殊さが注目されがちだけど(そしてそれは相変わらず面白いけど)、それも上述のような「話の内容」に専念できる状態を作り出すかぎりにおいて賞賛されるべきな気がする。

上演では、ウェイトレス西藤さん役の安藤真理がよかったのと、派遣社員女子役をほぼ2人1役で演じたチェルフィッチュの看板女優・山崎ルキノと初登場の伊東沙保の対称がきいてた。特に2幕に入って、それまで関係なく進んでいた複数の流れにメタレベルで注釈がはじまり、ウェイトレスが女子に「遅刻しても実は結構大丈夫じゃないですか」とか話しかけはじめるのはかなり感動させられた。想像上ではあれ、働く者同士が同じ気持ちを共有し連帯を果たした感があって。またそのときの女子役が(いかにもマイペースを崩さずかっこいい山崎ルキノではなく)窮屈そうな伊東沙保で、「はいっ、はいっ」といかにもかしこまった受け答えをしている感じもよかった。店員なんかにいきなり話しかけられたらそうなるに決まっているからで、でもそこになにがしかの心の交流はある、というか。さらにその直後、たぶん現実の二人にとって唯一の会話であった注文取りのマニュアルトークを、山縣太一と足立智充が「泥水飲んだことありますか」とかいってバカバカしく変奏しはじめるに及んでは、けっこうストレートな社会派ぶりに胸を熱くさせられた。

まあそういう熱さも、彼ら独得の、俳優たちが終始その場で言葉を選びながら話している感じ(に見せて全部脚本)という温度の低い語りがあって成り立つというか。勇ましい抵抗のスローガンが政治的なわけじゃないよな、というか。と思って帰りにパンフレット買って岡田利規のインタビューを読んだら、あまりに的確にそのことを解説していて、始まる前に読まなくて本当に良かったと思った。ある種のネタバレだ、あれは。