20120131

リバイバル・シネマに気をつけて〜渋谷系映画断章

今日1月31日、川勝正幸氏が55歳という若さで亡くなったそうだ。氏の熱心なファンとは言えない自分にとっても、その仕事に触れずに90年代を通過することはほぼ不可能だった。下記は「渋谷系と映画」というテーマで大昔に某誌に書かせていただいた文章だけど、これを読んでもわかるように、今後「渋谷系の時代」といったものが振り返られることがあるなら川勝氏はその最重要証言者の一人であることは間違いない。いろいろなことが語られないまま終わってしまったことが残念でならない。心からお悔やみ申し上げます。


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リバイバル・シネマに気をつけて〜渋谷系映画断章

 渋谷系的ヴィジュアルといって何をイメージするだろうか? 60年代のヒップなグラビアをサンプリング/カットアップ/リミックスした、信藤三雄率いるコンテムポラリー・プロダクションのかつてのテイスト。あるいは橋本徹のフリーペーパー『suburbia suite』(90〜)が1992年の秋に出したレコード・ガイド本の表紙。ずらりと並べられたオシャレでカラフルなレコード・ジャケットのうち少なからぬ数を、60年代のサントラ盤が占めていた。

 多くの渋谷系「元ネタ」映画のリヴァイヴァル上映企画/編集に関わった川勝正幸が語るように、90年代の東京には「昔の作品を過去のヴィジュアルのまま出さずに、今の目で面白いと思う要素を増幅してデザインするという方法論」が生まれた(『スタジオボイス』96年12月号)。大文字の映画史とも従来の映画狂的評価とも別に、レコード狂的感性によってレア・グルーヴ的に「発見」された60年代のスパイものやお色気コメディ、ヌーヴェル・ヴァーグのある種の作品などなどが、まさに90年代東京の新商品として、六本木シネヴィヴァンやシネセゾン渋谷といったミニシアターで公開されたのである。

先鞭をつけたのは1990年、六本木シネヴィヴァンでのジャック・タチ作品特集上映。雑誌『VISAGE』Vol.3(89)で渾身のタチ特集を手がけた小野郁夫の企画によるもので、ヴィジュアルや音楽の表層的な魅力に焦点を当てた同号の編集思想を反映、じっさい『ぼくの伯父さん』(58)や『プレイタイム』(67)のミッド・センチュリー・モダンな家具や建築、音楽の洒脱さは、イメージとしての「渋谷系」にふさわしかった。また、見た目に凝ったパンフレット(この場合は雑誌)、オリジナルTシャツやポスターなどグッズを充実させる、現在ではお馴染みとなった興行スタイルのひな形もここにあった。

これが旧体質な配給に風穴を開けたかたちとなり、翌91年には小西康陽とコレクターズの加藤ひさしのリクエストによる『ナック』(65)のリヴァイヴァルがヒット。以後、『パリところどころ』(65)、『茂みの中の欲望』(67)、『ジョアンナ』(68)、『欲望』(66)、『007/カジノ・ロワイヤル』(67)、『ロシュフォールの恋人たち』(66)、『唇からナイフ』(63)、『バーバレラ』(67)、『黄金の七人』(65)、ファッション写真家ウィリアム・クラインの『ポリー・マグー お前は誰だ?』(66)、ジャン・リュック=ゴダールとアンナ・カリーナ、セルジュ・ゲーンズブールとジェーン・バーキン夫妻の数々の関連作品……発掘上映が渋谷系のレア盤CD化ブームとも平行して続いた。『ジョアンナ』や『カジノ・ロワイヤル』(石熊勝巳編集)をはじめ、レコード・ジャケット型のパンフレットが多く見られたのも象徴的だ。

こうした渋谷系、あるいは「小西/川勝系」と括られもする映画消費の傾向に対して、所詮は80年代以来の消費文化の爛熟がもたらした鼻持ちならないグルメ指向、あるいは単なるレコード狂的フェティシズムであると批判するのは簡単である。しかしそれだけだろうか? 小西は、山田宏一『増補 友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』(平凡社ライブラリー)の解説で、カメラを手にした映画狂たちに創作のコアを与えられた記憶を告白している。

 「そう、助監督経験などなくても映画を撮れる、というのは、ぼくにとって、譜面の読み書きが出来なくても、バンドボーイにならなくても、きみはレコードを作ることが出来ると言われているのと同じだった。/当時のぼくは、批評家時代のトリュフォーの如く、いま音楽業界でのうのうと下らないレコードばかり出している奴ら、いますぐくたばれ、といつも口にしていた。/その一方で、ぼくは数少ない友人たちと60年代のポップやソウルのレコードを聴き、夢中になっていた。アンリ・ラングロワのシネマテークに行くように、古レコード屋であらゆるジャンルのレコードを漁った。その後音楽家になってからは、あらゆる映画は、すでに撮られてしまった、というゴダールの言葉を、そのまま受け売りして、音楽雑誌のインタヴューでよく喋っていたはずだ。」

 ヌーヴェル・ヴァーグが、また渋谷系が好んだ「オマージュ」とは、遅れて来た者が偏愛を根拠に引用/パクリを剽窃行為から愛の行為に変える呪文だった。それはスノビッシュな消費のゲームと〈消費されないもの〉の間で揺れながら、ローカルな感覚の強度がある種の普遍性を獲得することに賭けるアクロバットなのだ……。

 なんちゃって現実はタフだ。PVでは『パリの恋人』や『007/危機一発』(『それゆけフリッパーズ! 名画危機一発』は「危機一髪」の誤植ではないだろう)など小粋な映画ネタを披露したフリッパーズ・ギターが、唯一実際の映画と関わった『オクトパス・アーミー シブヤで会いたい』(90/及川中監督)では、シブヤはシブヤでも「チーマー」のシブヤ、外車のカーステから流れる『海へ行くつもりじゃなかった』の楽曲が哀しいほど場違いだった。また小沢健二とスチャダラパーがタイトルを拝借されたAV『今夜はBoogie Fuck』(94)は、AV嬢の娘(上條うらら)が田舎から彼女を連れ戻しにきた父親(山本竜二)とカンフー対決するコテコテの自主映画マナー作である。

 こうして「渋谷系」のスーパー・クールな遊戯も、愛と盗みの狭間で揺れる自意識も、はたから見たら圧倒的にカンケーなかった、という楽しいオチがつくのでした。


【初出:別冊宝島771『音楽誌が書かないJポップ批評25 フリッパーズ・ギターと「渋谷系の時代」』(宝島社、2003)】

20120125

1/24 tue

『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』拾い読み。「TBS闘争」を通してのちに独立し「テレビマンユニオン」を結成することになるテレビマンたちの68年リアルタイムドキュメント。テレビの特性は画じゃなくて時間(持続)だって議論があって、書かれた時点ではまだあさま山荘のダダ漏れ中継はやってなかったんだなーとか。Ust中継論なんかにもつながる話。

1/23 mon

トマパイのカミスン出演をSlingbox経由でリアルタイム視聴。キラキラしていてよかった。

1/22 sun

■オーバーカッセル(うちからだとライン川を越えた向こう)で日本から赴任した家族の新年会。

■AKBの新曲「GIVE ME FIVE!」の初披露を動画で見る。メンバー自身がバンド演奏をやってるのがよくて妙に見返してしまう。前田敦子ってすごいな。ドラムスの柏木さんが最後立つとことかもいい。(軽音部の課題曲に最適な簡単な曲というのもあって)ゼロからの人達にしては演奏もそこそこだし、サマになる見せ方をちゃんと練習してきてるという感じがした。

演奏に入る直前に舞台裏ドキュメンタリーがちらっと入るんだけど、ギターを「ジャーン」と弾いたあとの腕の回し方練習してる風の絵がちらっと写ってたり。なんか『嵐を呼ぶ男』の裕次郎がトレイナーにドラムの叩き方よりドラムスティックの回し方教えろと言ったとかいう逸話思い出した。

まどマギ

『魔法少女まどか☆マギカ』全12話を木金にかけて観た。面白かったのだけど、ラストはやや拍子抜け。例えるなら、核燃料サイクルがついに廃絶されるのかと思ったら、「もんじゅが完成しました!」だった感。これはハッピーエンドなのかなぁと。

メタ魔法少女もので、個人的には(魔法)少女に世界の欲望と闇を背負わせる世界のルールを批判的に捉えた作品、と思いながら観ていた。特に「魔法少女」と「魔女」の概念で希望と絶望のサイクルを描く論理構成は見事で、1話ごとのお話にブレイクダウンするのにも成功している、と思う。観ていて曖昧なところがほとんどない。

特に前半なんかは、セリフの一字一句が、この「アイドル戦国時代」の世にアイドル(魔法少女)になってくれた少女たちの闘いと苦しみの言葉に聞こえてしまい、辛いほどだった。ところどころ、魔法少女を「売春」の比喩として読ませるようなセリフも出てくる。で、実際「魔法少女」になること自体が罠というか、「まどか逃げてー!」って話になり、サイクルの全否定へと向かう。

と思いきや、結局終わってみると、世界の闇を解消する役目に(魔法)少女を割り振るという病んだシステム(に萌えること?)が最高度に洗練されただけだった感がある。魔女を消すなら、必然的に魔法少女も消すべきだったのでは、というのが自分の不満。実際、まどかの最後の願いはそういう射程を持つものだと思えたし。

1/21 sat

デュッセルドルフに来て助かっているのは、徒歩圏内に韓国系のアジア食材店だとか、日本人街のインマーマン通りがあって、日本食に不自由しないことだ。豆腐なんかも思いついてすぐに買いに行ける。

「Bakery My Heart」という日本式ベーカリーに行ってみる(Marienstr. 26, 40210 Düsseldorf)。クリームパンとかあんパンとか、各種惣菜パンが並んでるのが変な感覚。インマーマンから一本入った通りにあって、店員も日本人。買ったものを店内で食べるスペースとかもあってやはり日本人で賑わってた。

20120124

1/20 fri

前日のシュタムティッシュを受けて、日本人グループだけで集まる。音楽趣味の話ってひとによって文脈的な前提がバラバラすぎるから、あんまり付き合いはじめの段階では出さないものだけど、変なきっかけで音楽話というかアイドル話、V系話に。

で、アイドルファンの中で「よっしゃいく」人がいるように、V系には「咲く」人がいるということを知った。デュッセルドルフまで来て(笑)。両手をひらひらさせる手踊りを指す用語らしくて、時にはかけ声を入れたりもするようだ。ただそれはたいてい前から3列くらいの一部の客で、教えてくれた彼女なんかも、後ろの方から遠巻きに見ているタイプであると。

これってアイドル現場で言う「MIX」に近いよなと。咲く人ばかりじゃない、という彼女に対して、僕も「よっしゃいくのは単純に盛り上がって見えるし若い子たちはそれが盛り上がりだと思っている節もあるけれ ど、僕らみたいなオジサンファンにはそれをよく思ってない人もいるんだよね。うるさいしね」みたいな説明の仕方をしてみた。

1/19 thu

■行きの飛行機で読もうと思って持ってきてた近藤正高さんの個人誌『Re:Re:Re: 近藤正高雑文集』Vol.6読了。メイン論文「カップヌードルを知らなかった連合赤軍 独身者たちの一九七〇年代」はもともと20代の若書きとのことで、気になったネタ全部入れちゃえ的なドライヴ感がありとても面白かった。あさま山荘のテレビ中継を萩本欽一に代表される70年代バラエティ番組と結んでみたり、イメージに反して軽井沢にあったあさま山荘の観光地化をディスカバージャパンとの関連で読んでみたりの第2部が特に。

■11月に通っていた語学学校の友だちと久しぶりに飲む。毎週木曜に決めた場所で定例の飲み会(Stammtisch)をやっていて、4週間の通学期間が終わったあともちょこちょこ参加させてもらっているもの。いろんな国のいろんな前提を持つ友だちと気軽に話せる場所でありがたい。日本人のグループでも妙に盛り上がって、なんか翌日も会うことに。

1/18 wed 歌謡曲

高護『歌謡曲――時代を彩った歌たち』(岩波新書、2011)読了。新書サイズだけど、音も聴きつつ歴史観を頭に入れようと思って読んでたら時間がかかった。

戦前の佐藤千代子「波浮の港」(1928年)から実質的に80年代末のユーロビート歌謡までを基本的に時系列に論じているんだけど、とにかく実際の楽曲ありきの記述スタイルがすごく貴重。音楽理論(ドレミの書き起こし)や歌詞、歌唱法の分析など、すべてが徹頭徹尾具体的で、しかも読みやすく、なんというか「楽曲派」の神様みたいなテキストだった。

60年代の話がやっぱり面白くて、ロカビリー・ブーム〜カヴァー・ポップスの影響が曲も歌唱法も一変させていく過程が丁寧に描かれる。GSみたいなバンドサウンドの例だけでなく、例えば北島三郎がどう新しかったのかとか、ある種の演歌のイノベーションにも触れられるのも個人的にためになった。

面白かったのは西郷輝彦の例で、元祖御三家の三人の中でも、ロカビリー出身で戦後生まれの西郷だけが歌唱法もリズム解釈も異質だという指摘。橋幸夫や舟木一夫が本質的には従来的なレコード会社の専属作家制から生まれたお弟子さんなのに対して、いわばこの人だけはロック以降の感覚があると。

「星娘」(1965)なんか実際に聴くと、西郷輝彦ってこんな歌手だったのかと驚かされる。具体的にはエルヴィスゆずりの細かいヴィヴラートやヒーカップ(裏声)、マンブリング(吃音)などで、ある意味V系の元祖みたいな、ヌメヌメとした異様な発声法になる。一般にリズム歌謡・エレキ歌謡で有名な橋幸夫には、確かにこの感覚はない気がする。


全体的に、耳で聴いて確かめられる変化に、歴史的背景の裏付けが与えられてくのが気持ちいい。欧陽菲菲はブラス・ロックの16ビート感覚を導入したとか、それは外国人のアグネス・チャン同様「言葉の意味」に縛られないリズム解釈のおかげだとか、キャンディーズの「春一番」はユニゾンを増やしたのがヒットの鍵だとか、小柳ルミ子などの宝塚マナーはヨーロッパの声楽とレヴューを合わせたステージ中心の発声法だとか、なるほどなーという指摘が満載でした。


20120118

1/17 tue

ZARA HOMEでセール品のカゴ買う。大根とベーコンのスープ適当に作ったらおいしかった。あとさいまるさんから、アイカレがステージでやってる新曲が Troop "Spread My Wings" みたい、との聞き捨てならない情報が。

1/16 mon

あかり脱退発表の柏の葉から1周年ということで、長いようでもあり、短いようでもあり。ミライツアーから4/10中野の流れは、本来なら6人でのライブをひとつひとつ見届けることで心を整理する期間だったはずが、3月の1ヶ月が震災ですっ飛んでしまったものだから、なんだかいまだに現実感をつかみかねているところがある。

いま思えば、中野以前に6人でのパフォーマンスを観た最後って、自分はほんとに地震の前日、3/10の新宿タワレコ屋上だったんだよな。MCでも「中野まであと1カ月」とはっきり言っていて。中野が終わり、名前がZになってからは、じつはドルトムントを含めて2回しか生で観られていない。

それでも中野1部での「デコまゆ」と、年末の「ウレロ」があったのは、ファンにとって本当に恵まれていることだとは思った。どちらも、バカバカしいフィクション仕立てにすることで脱退の現実のショックを和らげるようなものになっていたから。特にクリスマスイブ(SSA前日)に放送された「ウレロ」の最終回は、年が明けてから視聴してびっくりした。完全に、ありえたかもしれないあかりと5人の物語だったから。

1/15 sun

今週は、naohironixさんの年間ベストを参考に海外インディーロックなどを試聴したのが面白かった。
http://d.hatena.ne.jp/naohironix/20120111
なんというか風呂場で歌ってるみたいな音楽ばかりで気持ちいい。90年代初頭のSarahとかの蒼いギターバンドとか思わせる感じもあるし、もうちょっとダンスミュージックを経由したアーバン(笑)な感じもあるし。

世に言われるチルウェイブ系とかってのも、聴けばだいたい好きなのはわかり切っているのだけど、どうも自分から探すに至っていないというか、どこから聴いていいのかわかんなくなってるところがある。この時代、ただでさえ無料で聴ける音楽が大量にあるし、あるジャンルにロックオンしたらそこから出ずに無限に追いかけることができてしまう。例えば去年の自分ならそのジャンルは国内アイドルソングで、そんな聴き方をしていると、結局他のものまで手が回らないというのが正直なとこだ。

だから趣味やセンスに勝手に親近感を覚えている人がそれぞれにこういう年間ベストを発表してくれるととても参考になるし、補完作業も楽しい。naohironixさんのベストでは、Korallreven、Craft Spells、Destroyerが特に気に入った。








ちなみにCraft Spellsの花束ジャケットってNew Orderの『権力の美学』意識してんのかなーと思って、所属レーベルCaptured Tracksのカタログ見たらほんとにそんなジャケばっかり並んでいたので笑ってしまった。しかもThe Wakeの「Crush The Flowers」(Sarahの21番)をリイシューとかしてる。完全にそういう美学の確信犯なんですね。
http://capturedtracks.com/catalog/discography/

20120117

島村抱月

変なきっかけでHDDから発掘された学生時代のレポートをいろいろ読んでたら、そこそこ面白いものもあったので実験的に晒してみる。

島村抱月という人については、授業の一環で調べただけで個人的な執着がそれほどあるわけではないけれど、ここに書かれていることは、たしかに「芸術性と大衆性の両立」みたいな話のヒントないしは慰めになるものがあると思う。


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島村抱月と民衆芸術──「民衆芸術としての演劇」を中心に

 新劇の流れを考えたとき、一方に近代の啓蒙のプロジェクトとしての側面があり、一方に演劇という芸術の自律性を探るモダニズム芸術一般としての側面がある。新劇の大きな二つの流れとしては、一方に小山内薫の自由劇場(1909〜19)〜築地小劇場(1924〜29)の小劇場主義の流れがあり、一方に島村抱月の文芸協会(1906〜13)〜芸術座(1913〜19)の大劇場主義があった。
 至上の芸術の達成のためにはまず大劇場主義で興業を回転させ、採算を考えなければならない、と考える島村の立場は、採算度外視で芸術の自律性をエリート主義的に追究する小山内にしてみれば、大衆迎合的・妥協的な態度と映っただろう。しかし小山内にしても結局は土方與志というパトロンを得てこその築地小劇場だったわけで、それは所詮、保護された空間の中での児戯でしかないとも言える。翻って、松井須磨子を中心とするスターシステムを作り、主題歌のレコードをヒットさせ、次々と公演を打ち商業的にも一定の成功を収める島村の芸術座は、小山内に比べてずっとたくましく、理念と実体の一致を成し遂げていたとも言えるだろう。ここには「芸術か商業性か」という古典的なジレンマが典型的なかたちで見られる。
 「民衆教化」、すなわち啓蒙のプロジェクトとしての芸術というテーマは、1916〜17(大正5〜6)年にかけて前景化した。「民衆芸術論争」である。まず本間久雄は「民衆芸術の意義及び価値」(『早稲田文学』1916年8月号)において、ロマン・ロランの『民衆劇論』に依拠したかのかたちを採って、まず民衆教化のツールとしての演劇の有効性を唱えた。これに対し安成貞雄は同じ月の『読売新聞』において、芸術を「民衆芸術」と「高級芸術」に二分して、前者を民衆に与えるとする本間の階級性を問うた。そしてそのそもそもの火付け役となった『早稲田文学』は1917(大正6)年2月号に「民衆芸術」を特集した。
 島村抱月「民衆芸術としての演劇」はその中の一編として発表された。本論では、この論文を中心に、島村抱月の実践とはなんだったか、また民衆芸術運動とはなんだったのかを見ていこうと思う。

 島村はまず、芸術の教化目的とは「人間の魂の自由を呼び醒ますこと」だと定義し、それは「事毎に新人生新道徳の建設に向ふ刺戟を見出すこと」だとする。現状を打破し、未来を建設するための起爆剤としての芸術。それは「目醒めたる人の魂の囚はれざる自由な活動」によって可能になる。
 しかし島村の構想する「民衆教化の藝術」は、上位に立つ「目醒めたる人」が「民衆」に対して一方的に理念を教条主義的に与えるという単純な啓蒙のシステムとはまた違っている。彼は下層社会、無知の社会であるがために常識と相成れないものは危険であるとする「官憲」の論理に対して、現場で民衆を相手にする「芝居経営者」の民衆観を対置する。「上層の人間こそさういふことに馴れていないから一層強く刺戟を受けるが、下層の人間は芝居や小説にある位のことは殆ど日常茶飯の間に経験しているから官憲者流が机上で想像するほど強い刺戟を受けることはない」。ここには「現場」から思考する演劇人として島村の立場と同時に、彼の「民衆」観がよく出ている。
 島村の言う「魂」とは「植物の種子の如きもの」で、「決して理想主義の理想ではない」。それは不断に生を更新していく「吾々の本能的欲求」、人間の内発的、身体的潜在能力であり、そこに上層、下層という二分法はない。彼の対象は特定の趣味の集団ではなく、広く民衆=多数者であるから、彼の演劇はよく言えば普遍的にアピールするなにものか、悪く言えば最大公約数的無難さとなるだろう。また演劇というジャンルは本質的にハイブリッドなものであり、自律的芸術ジャンルではあり得ない。ゆえに「事実に於ても理屈に於ても演劇は総合芸術であると共に一種の妥協芸術でなくてはならない」。
 ここでの島村は「面白さ」への「妥協」にむしろ積極的である。「通常演劇が民衆と接触する第一の点は広い意味で面白いといふことにある。面白いとは要するに吾々の魂に刺戟を與へ興奮を與へることである」。先に見たように、彼にとって芸術とは魂を鼓舞するものであったはずだから、「面白さ」とは芸術と民衆を媒介するブレイクスルーということになるだろう。それはまた同時に、「面白くない新劇」の芸術的退廃への批判ともなる。演劇の芸術としての正統性と、芸術ジャンルの自律性を目指すあまり、不自然な翻訳体を「自然」とし、脚本第一で俳優の演技=身体的所作を度外視する「俳優無用論」へと至ったエリート主義的な新劇。それは「面白くなさ」を芸術的価値と読み替える「遠近法的倒錯」(ニーチェ)において成り立っている。それに対して「面白さ」の積極的価値を唱えるここでの島村は、ドラマトゥルギーと理念との、民衆の評価=商業的成功と芸術との幸福な融合を信じているかのようだ。
 しかしそれは長く続かない。「面白さ」の概念は島村の実存にとって両義的である。別の箇所で「藝術の中に藝術にあらざる面白味をも加へざるを得ない場合が生じて来る」と言うとき、彼は「面白さ」を芸術と民衆の積極的な媒介項ではなく、明らかに単なる必要悪として消極的に言っている。「面白さ」と「芸術」の関係をめぐって、彼の評価は分裂している。
 その分裂は「二元の道」と呼ばれる彼の実践に切実に表れているだろう。彼には結局、芸術座での成功は、商業と芸術の融合的成功とは映らない。そこにはあるやましさがあるかのようだ。彼は芸術は別の場所にあり、商業的成功はそれ自体で意味のあることではないとどこかで決定的に信じている。だからこそ実存的なエクスキューズとして、芸術倶楽部なる別のもう一つの組織で実験劇をやらなければならない。
 当時を題材に採った宮本研の戯曲『美しきものの伝説』(1969年初演)には、島村抱月と思われる「先生」と、久保栄と思われる「学生」が議論する場面があるが、そこでの「学生」の発言が端的にこの問題を突いている。「僕の意見では、興業劇と研究劇、この二つを両立させようとし、しかもそれが成功しているかに見えるその点において、先生は致命的な敗北を喫していらっしゃると思います。すなわち、民衆と芸術とを統一するのだとおっしゃりながら、その実は、大劇場での興業劇では芸術をとりにがし、倶楽部での研究劇では民衆を見失っていらっしゃるのです」。
 しかしその敗北には意味があったと私は思う。確かに島村は当該論文で、最終的に「成るべく多数の民衆を集めると同時に成るべく多量の藝術的分子をもその中に保留しておきたいといふのが私の第一の苦心である」と言うことしかできない。ただしこの「成るべく」の位相は、少なくとも生産的である。絶対的達成がユートピア(=どこにもない場所)である以上、「成るべく」のプロセスにおける葛藤こそが芸術生産活動そのものだ。
 その点、島村抱月が真に評価されるべきなのは、芸術座の浅草での興業だったのではないか。民衆の「低俗な」娯楽の中心地であるところの浅草で、「芸術」を見せること。「中味さへかはらなかつたら蒔絵の重箱に盛らうが素焼の皿に盛らうがそんなことは重要でない。私は寧ろ、蒔絵の重箱に盛られたものが、更に素焼の更に盛られて、浅草の大民衆の巷に提供されることを最も意義ある痛快のことと信ずる」。これはジャンル横断的なアプローチがなされるようになってきた現代の視点から見てもかなりラディカルな認識であると言えるし、それを理念でなく実際の興業に結びつけ、また成功させたことは一つの誇るべき達成だったと言えるのではないか。
 しかし改めて、民衆教化の、啓蒙のプロジェクトとしての新劇とは、芸術とはなんだったのか。ロマン・ロランの『民衆劇論』は、民衆と芸術が幸福な融合し、民衆の中から自然に祝祭が沸き起こって、最終的には芸術そのものは姿を消すという、ルソー的な祝祭のイメージで結ばれる。もちろんそれはどこにもない場所としてのユートピアであって、不可能な究極の達成へと向けて営まれる営みが逆説的に芸術なのである。
 しかしユートピアは、本当にどこにもない場所であったのだろうか? 
 島村は当該論文をこう締めくくる。「殊に近時の浅草はその群衆の性質が昔の玉乗り時代とは全然一変して居る。東京に於て上は貴族から下は職工労働者に至るまであらゆる物が入り込んで平等に取り扱はれている一大平民國はこの浅草である。私はむしろ将来においてこの浅草があらゆる平民運動の震源地となることを夢想している」。
 ここにはしかし、不可能な理想と思われた民衆と芸術の融和的関係が、すでに達成されてしまっているのではないか。明確な意図の下に民衆を目指さなければならなかった島村とは裏腹に、そこでは意図せずそれ自体として、民衆から芸術的関係がわき起こり、混沌の中で階級の上下が一人一人の差異に還元されるような、ユートピア的光景が現前してはいなかったか。

 状況がそれ自体としてあるとき、その状況を志向せねばならない「芸術」に存在意義はあるのだろうか。芸術に対する「芸能」の厚み。「通俗」そのものの抗いがたい力。それに対して我々は何ができるだろう。我々はまたしても答のない問いに送り返されてしまう。しかし通俗そのものへ没し去る直前で「うしろめたさ」につきまとわれる島村の実践の軌跡は、我々に何かしら希望を持たせるところがあるのではないか。

20120116

1/14 sat

TBSラジオタマフルでエドボルさんの「地方アイドル観戦ツアー」特集。LinQ(福岡)、Dorothy Little Happy(仙台)、ひめキュンフルーツ缶(松山)などをメインに、埼玉のPinkish、新潟のRYUTistなどのライブや音源を紹介したもの。

LinQのパートでは、日本語ラップ好きアイドルとしてtwitterで話題になった深瀬智聖さんの本人コメントが紹介された。「日本語ラップTOP 5」。ラップを聴きはじめたきっかけとして、悪そうなラップがナイーブでインドア派な自分に力をくれる気がした、と語っていたのは印象的だった。

しかしグループとして宇多丸氏が食いついたのは、RYUTistの異常なカヴァーセンス(フジファブリック、KREVA、聖飢魔II……)だったというオチが。

ちなみに、いつもどうやって日本のテレビやラジオを視聴しているのかとはよく聞かれるんだけど、TBSラジオの場合なら最近は「SHOUTcast」で検索して聴くことが多い。あるいは「KeyHoleTV」で配信が行われていればそれで。その他テレビの視聴・録画については以前も触れた「Slingbox」を使っている。

Romeo und Julia

 
1/14、クレーフェルトの劇場でバレエ『ロミオとジュリエット』のプレミエを観る。演出ロバート・ノース、音楽プロコフィエフ。

テアター・クレーフェルト・メンヒェングラートバッハというカンパニーには、近藤隆史さん、泰子さんという日本人バレエダンサーのご夫妻が所属していて、彼らの公演を観るのはこれが2回目。去年の12月に従姉がデュッセルに遊びに来て、ちょうどそのときかかっていた『Kontraste & Rhythmen』を観たのが最初だった。

バレエは門外漢だけど、言葉がないから楽しく観られる。『ロミオとジュリエット』名物のバルコニーのシーンは美しかったし、ところどころ舞踏会や民衆の踊りなどの群舞も用意されていて、とても華やかだった。

衣装も鮮やか、というかキャラクターが色分けされててわかりやすかった。隆史さんはロミオの友人の役というけっこう重要な役だったのだが、相方のパオロ・フランコさんと一緒に全身真っ赤、とか。で悪役は黒とか。

ちなみにパオロさんは男性ダンサーにしてはかなり小柄なタイプで、こう言ってはなんだがLinQのゆうみん的なインパクトと愛嬌がある。ダンスはきれいなので、やはり小柄だけど優雅で大きく見えるダンスを踊る泰子さんとよくペアで踊っているみたいだ。カーテンコールでも声援が上がっていた。


近藤隆史さん、泰子さんのサイト「Ballet life」
http://balletlife.sakura.ne.jp/
http://ballelife.blog.shinobi.jp/

20120101

2011アイドル楽曲ベスト25

先日、「第10回ハロプロ楽曲大賞2011 アイドル楽曲部門」に5曲を投票し、その投票内容に基本的に異存はないものの、ノミネート作が11月リリースまでで主催者の用意したリストからのみ、という選考区分ではこぼれるものも多分にあり、あまつさえ2011年は「アイドル戦国時代」の余波というか第二波という感じでローカルアイドル、マイナーアイドルのパワーを感じさせられた年ではあったので、以下、20作を追加することで個人的なトップ25を記録しておきたい。なお順位は限りなく不同であるが、読者への便宜上番号を振ることとする。

※1〜5位はこちら

6. Tomato n' Pine / ジングルガール上位時代

「キャプテンは君だ!」のフィリー色で本格的にトマパイを好きになった身としては、12月になってようやく本領発揮と思えるリリースが来た感。スピンアウト的な「雪がふるから…」や「Ain't No Stoppin' Us Now」ネタの「ワナダンス!」含め全曲完璧なEP。

7. JK21 / 天使と悪魔

『JK21やねん』には自分がアイドルポップスに求める楽しさ・かわいさが詰まっていた。チャイムメロやクラシック曲のコラージュで暴走する本作の他、カジくん系ソフトロックギタポ「年上のダーリン」やシャッフルビートの「わたここ」など聴きどころ満載。

8. さくら学院バトン部 Twinklestars / 天使と悪魔
iTunes
「成長期限定」小中学生グループにロックの寄る辺なさををぶつけるのが、さくら学院楽曲の面白さ。本体曲「FRIENDS」や重音部の「ド・キ・ド・キモーニング」も素晴らしかったが、中でも沖井礼二のピアノ・ロックに少女の声が乗るバトン部は宝だった。

9. 私立恵比寿中学 / エビ中一週間

ヒャダインこと前山田健一の「渋谷系育ち」の部分というかジャズやソフトロック系の洒落た作曲術が楽しめる傑作。少女たちの声質やキャラクターを十二分に活かした歌が高速ジャズに乗る。これがももクロのボツ曲だったとはなかなか考えさせられる話だ。

10. 3B junior / また明日…



ももクロ、エビ中を生んだスターダスト芸能3部のジュニア部門。サブカル路線で人気が出た2011年ではあったが、こういうケレン味のないポップスのはまる、大手事務所の選ばれし美少女たちのモラトリアムの楽園、みたいな感触は大事にしてほしい。CD化希望。

11. bump.y / Kiss!

bump.yさんには申し訳ないが、これはKARAの作曲家チーム、sweetuneことハン・ジェホ&キム・スンスの「胸キュン80s路線」が久々に味わえる楽曲として大いに楽しんだ。US系の現代的なプロダクションを経由した「ハイスクールはダンステリア」で最高。

12. Sea☆A / Soda sound fountain
iTunes
シンガポール出身のメイド喫茶アイドル……らしいけど、永井ルイのポップ・フィーリングが存分に発揮されたテクノポップに、鬼才・畑亜貴ならではの聞きようによってはドエロだけどカワイイ歌詞、というマッチングが最高でないはずがなく。

13. キャラメル☆リボン / 恋のミュージック

2010年発売のチルドレンズフィリー歌謡傑作「虹色」に遅ればせに出会い、その正確かつ完全燃焼系の歌いぶりに恋いこがれていたところ、登場した新曲がまたまた傑作で。音質の悪いYouTubeのライブ映像をとにかくリピートさせられた。リリースが待ち遠しい。

14. Rev. from DVL / LOVE 〜arigataou〜

2011年はLinQを筆頭に、福岡産のアイドルと楽曲に驚かされ続けた1年でもあったが、このアクティブハカタ所属のティーンズグループもキッズソウル度の高い名曲多い。ホーンとストリングスが乱れ飛ぶ本作のほか、「拝啓オヤジ様!」「外環状線」なども良い。

15. ナイスガール トレイニー / 僕らの世代!

つんく♂が音楽担当のWiiの音ゲー『みんなのリズム天国』収録曲、とのことだが、素直な発声といい、ちっちゃい子ががんばってるダンスレッスン風景が即座に浮かんでくるような楽曲といい、芸能スクール系チルドレンズミュージックの傑作だった。

16. Dream5 / 恋の大予言

「恋のダイヤル6700」はキッズなら誰でもやってるしこの子たちもやってて食傷気味だったけど、選曲さえ渋ければフィンガー5曲ってまだまだ最高だなと思わせられた一曲。「天てれMTK」ことNHK教育「天才てれびくんMAX」発、AVEX所属のキッズグループ。

17. SpringBell feat.MIKA / プチョヘンザップ〜こども相談室〜

福岡のNOIR所属こどもラップグループ。イクゾー的プリミティヴなフローがサビでいきなり「エビバリプチョヘンザ! バウンス! バウンス! バウンス!」と解像度が上がるのが面白い。同事務所のJK☆COLORと同じ宅録インディーポップ感にググっとくる。

18. スマイル学園 / Twinkle Star

Boys Town Gang版「君の瞳に恋してる」を下敷きにしたこの曲、なんと過去の地方アイドル(山梨のTIARA)のカヴァーだそうで。東京女子流がAVEXの遺産を再提示するように、彼女たちは00年代マイナー/地方アイドル名曲のリベンジ実験場になってる側面もあるようだ。

19. R☆M / Lovin' You

2011年はNegiccoの全国デビューが決まるとともに、作曲家・connie氏のワークスに正当なスポットライトが当たり始めた年でもあったのでは。武田るい率いるR☆Mの2ndシングルも、connie氏お得意の四つ打ちポップスと伸びやかな歌が素敵だった。

20. CQC's / ゆるふわweekend

福岡アイドルシーンの底力に驚かされた曲のひとつ。超カッコいいダンクラ路線は、なんと松井寛御大のサウンドプロデュースという反則技だった。蓮っ葉なユニゾンが最高。c/w「wanna be your...」もジャムの「A Solid Bond in Your Heart」みたいな名曲。

21. 恵比寿マスカッツ / スプリングホリデー


カイリー「ラッキーラブ」系正調ユーロビートに癒される季節モノ。AV女優やグラドル中心のグループ、という出自を特段強調も否定もせず、素直な発声でかわいく無邪気な絵空事路線をごくごく自然に成立させているのがこのグループの面白いところだと思う。

22. アイドリング!!! / 春色の空

アイドリング!!!は2nd『Petit-Petit』の折衷ポップ感が好きなのだが、それでも『SISTERS』はよくできたアルバムだったと思う。南野陽子「話しかけたかった」系のなんでもないイイキョクである本作のほか、四つ打ち曲「ア・ナ・ロ・グ」もよく聴いた。

23. Dorothy Little Happy / 部屋とパジャマと私

仙台を拠点に3月全国デビューの予定が震災で調子が狂い、しかし8月TIF(東京)出演で「見つけられた」という経緯が2011年を象徴する感じがするグループ。「デモサヨナラ」の魅力は当然のことながら、個人的には本作のようなミディアム曲もよく聴いた。

24. Not yet / 週末Not yet

AKB48関連ユニットでは、壮大なストリングスとホーンにハープまで鳴っちゃう爽やかな四つ打ち曲の本作を一番よく聴いた。こう言っては失礼かもしれないが、さしここと指原さんがこういうピックアップをされる人気メンバーになるとは意外だった……

25. 吉川友 / こんな私でよかったら

なんちゅうフックのある良いメロの四つ打ち曲か! と思ったらサカノウエヨースケ作とのことで納得した、ハロプロエッグ出身のソロアイドル吉川友の3rd。ラストシーンが本人登場のライブになってる映画『きっかけはYOU!』上映も面白かった。


「アイドル戦国時代」そして「ローカルアイドルブームの再燃」とは、結局はAKB48ブームがビジネススキームの普及という形で促した大人の打算に過ぎないのかもしれない。これが継続的なものなのか、それとも「AKB以外は大してオイシクない」と気付いた大人たちが早々に見切りを付けてまたまた総崩れのような冬の時代が訪れてしまうのか、それはまだわからない。しかし、ともかく座して新しいイイキョクを待つのみのいちリスナーとしては、音楽・ダンス・ビジュアル面でのクリエイティヴな魂に才能を発揮する機会がより多く与えられることを、そしてなにより、芸能の道を志す少女たちに幸多からんことを祈るばかりだ。