20120117

島村抱月

変なきっかけでHDDから発掘された学生時代のレポートをいろいろ読んでたら、そこそこ面白いものもあったので実験的に晒してみる。

島村抱月という人については、授業の一環で調べただけで個人的な執着がそれほどあるわけではないけれど、ここに書かれていることは、たしかに「芸術性と大衆性の両立」みたいな話のヒントないしは慰めになるものがあると思う。


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島村抱月と民衆芸術──「民衆芸術としての演劇」を中心に

 新劇の流れを考えたとき、一方に近代の啓蒙のプロジェクトとしての側面があり、一方に演劇という芸術の自律性を探るモダニズム芸術一般としての側面がある。新劇の大きな二つの流れとしては、一方に小山内薫の自由劇場(1909〜19)〜築地小劇場(1924〜29)の小劇場主義の流れがあり、一方に島村抱月の文芸協会(1906〜13)〜芸術座(1913〜19)の大劇場主義があった。
 至上の芸術の達成のためにはまず大劇場主義で興業を回転させ、採算を考えなければならない、と考える島村の立場は、採算度外視で芸術の自律性をエリート主義的に追究する小山内にしてみれば、大衆迎合的・妥協的な態度と映っただろう。しかし小山内にしても結局は土方與志というパトロンを得てこその築地小劇場だったわけで、それは所詮、保護された空間の中での児戯でしかないとも言える。翻って、松井須磨子を中心とするスターシステムを作り、主題歌のレコードをヒットさせ、次々と公演を打ち商業的にも一定の成功を収める島村の芸術座は、小山内に比べてずっとたくましく、理念と実体の一致を成し遂げていたとも言えるだろう。ここには「芸術か商業性か」という古典的なジレンマが典型的なかたちで見られる。
 「民衆教化」、すなわち啓蒙のプロジェクトとしての芸術というテーマは、1916〜17(大正5〜6)年にかけて前景化した。「民衆芸術論争」である。まず本間久雄は「民衆芸術の意義及び価値」(『早稲田文学』1916年8月号)において、ロマン・ロランの『民衆劇論』に依拠したかのかたちを採って、まず民衆教化のツールとしての演劇の有効性を唱えた。これに対し安成貞雄は同じ月の『読売新聞』において、芸術を「民衆芸術」と「高級芸術」に二分して、前者を民衆に与えるとする本間の階級性を問うた。そしてそのそもそもの火付け役となった『早稲田文学』は1917(大正6)年2月号に「民衆芸術」を特集した。
 島村抱月「民衆芸術としての演劇」はその中の一編として発表された。本論では、この論文を中心に、島村抱月の実践とはなんだったか、また民衆芸術運動とはなんだったのかを見ていこうと思う。

 島村はまず、芸術の教化目的とは「人間の魂の自由を呼び醒ますこと」だと定義し、それは「事毎に新人生新道徳の建設に向ふ刺戟を見出すこと」だとする。現状を打破し、未来を建設するための起爆剤としての芸術。それは「目醒めたる人の魂の囚はれざる自由な活動」によって可能になる。
 しかし島村の構想する「民衆教化の藝術」は、上位に立つ「目醒めたる人」が「民衆」に対して一方的に理念を教条主義的に与えるという単純な啓蒙のシステムとはまた違っている。彼は下層社会、無知の社会であるがために常識と相成れないものは危険であるとする「官憲」の論理に対して、現場で民衆を相手にする「芝居経営者」の民衆観を対置する。「上層の人間こそさういふことに馴れていないから一層強く刺戟を受けるが、下層の人間は芝居や小説にある位のことは殆ど日常茶飯の間に経験しているから官憲者流が机上で想像するほど強い刺戟を受けることはない」。ここには「現場」から思考する演劇人として島村の立場と同時に、彼の「民衆」観がよく出ている。
 島村の言う「魂」とは「植物の種子の如きもの」で、「決して理想主義の理想ではない」。それは不断に生を更新していく「吾々の本能的欲求」、人間の内発的、身体的潜在能力であり、そこに上層、下層という二分法はない。彼の対象は特定の趣味の集団ではなく、広く民衆=多数者であるから、彼の演劇はよく言えば普遍的にアピールするなにものか、悪く言えば最大公約数的無難さとなるだろう。また演劇というジャンルは本質的にハイブリッドなものであり、自律的芸術ジャンルではあり得ない。ゆえに「事実に於ても理屈に於ても演劇は総合芸術であると共に一種の妥協芸術でなくてはならない」。
 ここでの島村は「面白さ」への「妥協」にむしろ積極的である。「通常演劇が民衆と接触する第一の点は広い意味で面白いといふことにある。面白いとは要するに吾々の魂に刺戟を與へ興奮を與へることである」。先に見たように、彼にとって芸術とは魂を鼓舞するものであったはずだから、「面白さ」とは芸術と民衆を媒介するブレイクスルーということになるだろう。それはまた同時に、「面白くない新劇」の芸術的退廃への批判ともなる。演劇の芸術としての正統性と、芸術ジャンルの自律性を目指すあまり、不自然な翻訳体を「自然」とし、脚本第一で俳優の演技=身体的所作を度外視する「俳優無用論」へと至ったエリート主義的な新劇。それは「面白くなさ」を芸術的価値と読み替える「遠近法的倒錯」(ニーチェ)において成り立っている。それに対して「面白さ」の積極的価値を唱えるここでの島村は、ドラマトゥルギーと理念との、民衆の評価=商業的成功と芸術との幸福な融合を信じているかのようだ。
 しかしそれは長く続かない。「面白さ」の概念は島村の実存にとって両義的である。別の箇所で「藝術の中に藝術にあらざる面白味をも加へざるを得ない場合が生じて来る」と言うとき、彼は「面白さ」を芸術と民衆の積極的な媒介項ではなく、明らかに単なる必要悪として消極的に言っている。「面白さ」と「芸術」の関係をめぐって、彼の評価は分裂している。
 その分裂は「二元の道」と呼ばれる彼の実践に切実に表れているだろう。彼には結局、芸術座での成功は、商業と芸術の融合的成功とは映らない。そこにはあるやましさがあるかのようだ。彼は芸術は別の場所にあり、商業的成功はそれ自体で意味のあることではないとどこかで決定的に信じている。だからこそ実存的なエクスキューズとして、芸術倶楽部なる別のもう一つの組織で実験劇をやらなければならない。
 当時を題材に採った宮本研の戯曲『美しきものの伝説』(1969年初演)には、島村抱月と思われる「先生」と、久保栄と思われる「学生」が議論する場面があるが、そこでの「学生」の発言が端的にこの問題を突いている。「僕の意見では、興業劇と研究劇、この二つを両立させようとし、しかもそれが成功しているかに見えるその点において、先生は致命的な敗北を喫していらっしゃると思います。すなわち、民衆と芸術とを統一するのだとおっしゃりながら、その実は、大劇場での興業劇では芸術をとりにがし、倶楽部での研究劇では民衆を見失っていらっしゃるのです」。
 しかしその敗北には意味があったと私は思う。確かに島村は当該論文で、最終的に「成るべく多数の民衆を集めると同時に成るべく多量の藝術的分子をもその中に保留しておきたいといふのが私の第一の苦心である」と言うことしかできない。ただしこの「成るべく」の位相は、少なくとも生産的である。絶対的達成がユートピア(=どこにもない場所)である以上、「成るべく」のプロセスにおける葛藤こそが芸術生産活動そのものだ。
 その点、島村抱月が真に評価されるべきなのは、芸術座の浅草での興業だったのではないか。民衆の「低俗な」娯楽の中心地であるところの浅草で、「芸術」を見せること。「中味さへかはらなかつたら蒔絵の重箱に盛らうが素焼の皿に盛らうがそんなことは重要でない。私は寧ろ、蒔絵の重箱に盛られたものが、更に素焼の更に盛られて、浅草の大民衆の巷に提供されることを最も意義ある痛快のことと信ずる」。これはジャンル横断的なアプローチがなされるようになってきた現代の視点から見てもかなりラディカルな認識であると言えるし、それを理念でなく実際の興業に結びつけ、また成功させたことは一つの誇るべき達成だったと言えるのではないか。
 しかし改めて、民衆教化の、啓蒙のプロジェクトとしての新劇とは、芸術とはなんだったのか。ロマン・ロランの『民衆劇論』は、民衆と芸術が幸福な融合し、民衆の中から自然に祝祭が沸き起こって、最終的には芸術そのものは姿を消すという、ルソー的な祝祭のイメージで結ばれる。もちろんそれはどこにもない場所としてのユートピアであって、不可能な究極の達成へと向けて営まれる営みが逆説的に芸術なのである。
 しかしユートピアは、本当にどこにもない場所であったのだろうか? 
 島村は当該論文をこう締めくくる。「殊に近時の浅草はその群衆の性質が昔の玉乗り時代とは全然一変して居る。東京に於て上は貴族から下は職工労働者に至るまであらゆる物が入り込んで平等に取り扱はれている一大平民國はこの浅草である。私はむしろ将来においてこの浅草があらゆる平民運動の震源地となることを夢想している」。
 ここにはしかし、不可能な理想と思われた民衆と芸術の融和的関係が、すでに達成されてしまっているのではないか。明確な意図の下に民衆を目指さなければならなかった島村とは裏腹に、そこでは意図せずそれ自体として、民衆から芸術的関係がわき起こり、混沌の中で階級の上下が一人一人の差異に還元されるような、ユートピア的光景が現前してはいなかったか。

 状況がそれ自体としてあるとき、その状況を志向せねばならない「芸術」に存在意義はあるのだろうか。芸術に対する「芸能」の厚み。「通俗」そのものの抗いがたい力。それに対して我々は何ができるだろう。我々はまたしても答のない問いに送り返されてしまう。しかし通俗そのものへ没し去る直前で「うしろめたさ」につきまとわれる島村の実践の軌跡は、我々に何かしら希望を持たせるところがあるのではないか。