今日1月31日、川勝正幸氏が55歳という若さで亡くなったそうだ。氏の熱心なファンとは言えない自分にとっても、その仕事に触れずに90年代を通過することはほぼ不可能だった。下記は「渋谷系と映画」というテーマで大昔に某誌に書かせていただいた文章だけど、これを読んでもわかるように、今後「渋谷系の時代」といったものが振り返られることがあるなら川勝氏はその最重要証言者の一人であることは間違いない。いろいろなことが語られないまま終わってしまったことが残念でならない。心からお悔やみ申し上げます。
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リバイバル・シネマに気をつけて〜渋谷系映画断章
渋谷系的ヴィジュアルといって何をイメージするだろうか? 60年代のヒップなグラビアをサンプリング/カットアップ/リミックスした、信藤三雄率いるコンテムポラリー・プロダクションのかつてのテイスト。あるいは橋本徹のフリーペーパー『suburbia suite』(90〜)が1992年の秋に出したレコード・ガイド本の表紙。ずらりと並べられたオシャレでカラフルなレコード・ジャケットのうち少なからぬ数を、60年代のサントラ盤が占めていた。
多くの渋谷系「元ネタ」映画のリヴァイヴァル上映企画/編集に関わった川勝正幸が語るように、90年代の東京には「昔の作品を過去のヴィジュアルのまま出さずに、今の目で面白いと思う要素を増幅してデザインするという方法論」が生まれた(『スタジオボイス』96年12月号)。大文字の映画史とも従来の映画狂的評価とも別に、レコード狂的感性によってレア・グルーヴ的に「発見」された60年代のスパイものやお色気コメディ、ヌーヴェル・ヴァーグのある種の作品などなどが、まさに90年代東京の新商品として、六本木シネヴィヴァンやシネセゾン渋谷といったミニシアターで公開されたのである。
先鞭をつけたのは1990年、六本木シネヴィヴァンでのジャック・タチ作品特集上映。雑誌『VISAGE』Vol.3(89)で渾身のタチ特集を手がけた小野郁夫の企画によるもので、ヴィジュアルや音楽の表層的な魅力に焦点を当てた同号の編集思想を反映、じっさい『ぼくの伯父さん』(58)や『プレイタイム』(67)のミッド・センチュリー・モダンな家具や建築、音楽の洒脱さは、イメージとしての「渋谷系」にふさわしかった。また、見た目に凝ったパンフレット(この場合は雑誌)、オリジナルTシャツやポスターなどグッズを充実させる、現在ではお馴染みとなった興行スタイルのひな形もここにあった。
これが旧体質な配給に風穴を開けたかたちとなり、翌91年には小西康陽とコレクターズの加藤ひさしのリクエストによる『ナック』(65)のリヴァイヴァルがヒット。以後、『パリところどころ』(65)、『茂みの中の欲望』(67)、『ジョアンナ』(68)、『欲望』(66)、『007/カジノ・ロワイヤル』(67)、『ロシュフォールの恋人たち』(66)、『唇からナイフ』(63)、『バーバレラ』(67)、『黄金の七人』(65)、ファッション写真家ウィリアム・クラインの『ポリー・マグー お前は誰だ?』(66)、ジャン・リュック=ゴダールとアンナ・カリーナ、セルジュ・ゲーンズブールとジェーン・バーキン夫妻の数々の関連作品……発掘上映が渋谷系のレア盤CD化ブームとも平行して続いた。『ジョアンナ』や『カジノ・ロワイヤル』(石熊勝巳編集)をはじめ、レコード・ジャケット型のパンフレットが多く見られたのも象徴的だ。
こうした渋谷系、あるいは「小西/川勝系」と括られもする映画消費の傾向に対して、所詮は80年代以来の消費文化の爛熟がもたらした鼻持ちならないグルメ指向、あるいは単なるレコード狂的フェティシズムであると批判するのは簡単である。しかしそれだけだろうか? 小西は、山田宏一『増補 友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』(平凡社ライブラリー)の解説で、カメラを手にした映画狂たちに創作のコアを与えられた記憶を告白している。
「そう、助監督経験などなくても映画を撮れる、というのは、ぼくにとって、譜面の読み書きが出来なくても、バンドボーイにならなくても、きみはレコードを作ることが出来ると言われているのと同じだった。/当時のぼくは、批評家時代のトリュフォーの如く、いま音楽業界でのうのうと下らないレコードばかり出している奴ら、いますぐくたばれ、といつも口にしていた。/その一方で、ぼくは数少ない友人たちと60年代のポップやソウルのレコードを聴き、夢中になっていた。アンリ・ラングロワのシネマテークに行くように、古レコード屋であらゆるジャンルのレコードを漁った。その後音楽家になってからは、あらゆる映画は、すでに撮られてしまった、というゴダールの言葉を、そのまま受け売りして、音楽雑誌のインタヴューでよく喋っていたはずだ。」
ヌーヴェル・ヴァーグが、また渋谷系が好んだ「オマージュ」とは、遅れて来た者が偏愛を根拠に引用/パクリを剽窃行為から愛の行為に変える呪文だった。それはスノビッシュな消費のゲームと〈消費されないもの〉の間で揺れながら、ローカルな感覚の強度がある種の普遍性を獲得することに賭けるアクロバットなのだ……。
なんちゃって現実はタフだ。PVでは『パリの恋人』や『007/危機一発』(『それゆけフリッパーズ! 名画危機一発』は「危機一髪」の誤植ではないだろう)など小粋な映画ネタを披露したフリッパーズ・ギターが、唯一実際の映画と関わった『オクトパス・アーミー シブヤで会いたい』(90/及川中監督)では、シブヤはシブヤでも「チーマー」のシブヤ、外車のカーステから流れる『海へ行くつもりじゃなかった』の楽曲が哀しいほど場違いだった。また小沢健二とスチャダラパーがタイトルを拝借されたAV『今夜はBoogie Fuck』(94)は、AV嬢の娘(上條うらら)が田舎から彼女を連れ戻しにきた父親(山本竜二)とカンフー対決するコテコテの自主映画マナー作である。
こうして「渋谷系」のスーパー・クールな遊戯も、愛と盗みの狭間で揺れる自意識も、はたから見たら圧倒的にカンケーなかった、という楽しいオチがつくのでした。
【初出:別冊宝島771『音楽誌が書かないJポップ批評25 フリッパーズ・ギターと「渋谷系の時代」』(宝島社、2003)】
showstoppers
20120131
20120125
1/24 tue
『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』拾い読み。「TBS闘争」を通してのちに独立し「テレビマンユニオン」を結成することになるテレビマンたちの68年リアルタイムドキュメント。テレビの特性は画じゃなくて時間(持続)だって議論があって、書かれた時点ではまだあさま山荘のダダ漏れ中継はやってなかったんだなーとか。Ust中継論なんかにもつながる話。
1/22 sun
■オーバーカッセル(うちからだとライン川を越えた向こう)で日本から赴任した家族の新年会。
■AKBの新曲「GIVE ME FIVE!」の初披露を動画で見る。メンバー自身がバンド演奏をやってるのがよくて妙に見返してしまう。前田敦子ってすごいな。ドラムスの柏木さんが最後立つとことかもいい。(軽音部の課題曲に最適な簡単な曲というのもあって)ゼロからの人達にしては演奏もそこそこだし、サマになる見せ方をちゃんと練習してきてるという感じがした。
演奏に入る直前に舞台裏ドキュメンタリーがちらっと入るんだけど、ギターを「ジャーン」と弾いたあとの腕の回し方練習してる風の絵がちらっと写ってたり。なんか『嵐を呼ぶ男』の裕次郎がトレイナーにドラムの叩き方よりドラムスティックの回し方教えろと言ったとかいう逸話思い出した。
■AKBの新曲「GIVE ME FIVE!」の初披露を動画で見る。メンバー自身がバンド演奏をやってるのがよくて妙に見返してしまう。前田敦子ってすごいな。ドラムスの柏木さんが最後立つとことかもいい。(軽音部の課題曲に最適な簡単な曲というのもあって)ゼロからの人達にしては演奏もそこそこだし、サマになる見せ方をちゃんと練習してきてるという感じがした。
演奏に入る直前に舞台裏ドキュメンタリーがちらっと入るんだけど、ギターを「ジャーン」と弾いたあとの腕の回し方練習してる風の絵がちらっと写ってたり。なんか『嵐を呼ぶ男』の裕次郎がトレイナーにドラムの叩き方よりドラムスティックの回し方教えろと言ったとかいう逸話思い出した。
まどマギ
『魔法少女まどか☆マギカ』全12話を木金にかけて観た。面白かったのだけど、ラストはやや拍子抜け。例えるなら、核燃料サイクルがついに廃絶されるのかと思ったら、「もんじゅが完成しました!」だった感。これはハッピーエンドなのかなぁと。
メタ魔法少女もので、個人的には(魔法)少女に世界の欲望と闇を背負わせる世界のルールを批判的に捉えた作品、と思いながら観ていた。特に「魔法少女」と「魔女」の概念で希望と絶望のサイクルを描く論理構成は見事で、1話ごとのお話にブレイクダウンするのにも成功している、と思う。観ていて曖昧なところがほとんどない。
特に前半なんかは、セリフの一字一句が、この「アイドル戦国時代」の世にアイドル(魔法少女)になってくれた少女たちの闘いと苦しみの言葉に聞こえてしまい、辛いほどだった。ところどころ、魔法少女を「売春」の比喩として読ませるようなセリフも出てくる。で、実際「魔法少女」になること自体が罠というか、「まどか逃げてー!」って話になり、サイクルの全否定へと向かう。
と思いきや、結局終わってみると、世界の闇を解消する役目に(魔法)少女を割り振るという病んだシステム(に萌えること?)が最高度に洗練されただけだった感がある。魔女を消すなら、必然的に魔法少女も消すべきだったのでは、というのが自分の不満。実際、まどかの最後の願いはそういう射程を持つものだと思えたし。
メタ魔法少女もので、個人的には(魔法)少女に世界の欲望と闇を背負わせる世界のルールを批判的に捉えた作品、と思いながら観ていた。特に「魔法少女」と「魔女」の概念で希望と絶望のサイクルを描く論理構成は見事で、1話ごとのお話にブレイクダウンするのにも成功している、と思う。観ていて曖昧なところがほとんどない。
特に前半なんかは、セリフの一字一句が、この「アイドル戦国時代」の世にアイドル(魔法少女)になってくれた少女たちの闘いと苦しみの言葉に聞こえてしまい、辛いほどだった。ところどころ、魔法少女を「売春」の比喩として読ませるようなセリフも出てくる。で、実際「魔法少女」になること自体が罠というか、「まどか逃げてー!」って話になり、サイクルの全否定へと向かう。
と思いきや、結局終わってみると、世界の闇を解消する役目に(魔法)少女を割り振るという病んだシステム(に萌えること?)が最高度に洗練されただけだった感がある。魔女を消すなら、必然的に魔法少女も消すべきだったのでは、というのが自分の不満。実際、まどかの最後の願いはそういう射程を持つものだと思えたし。
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